絶対可憐チルドレン・THE NOVELS~B.A.B.E.L.崩壊~


絶対可憐チルドレン・THE NOVELS~B.A.B.E.L.崩壊~ (ガガガ文庫)

絶対可憐チルドレン・THE NOVELS~B.A.B.E.L.崩壊~ (ガガガ文庫)

レベル7を越える超能力。アクション満載。オールキャスト総出演。まさに、「夏休み全国公開! アニメ絶対可憐チルドレン The Movie」といったじつに出来のいいノベライズ作品。この手のノベライズ作品をそれほど読んでいるわけではないのですが、本作はマンガとの違和感というものがほとんど皆無で、チルドレンと宮本の会話などは読みながら椎名高志の絵が脳内で自動生成されるほどであり、ノベライズとしての水準はかなり高いのではないでしょうか。
そのあたりは、超能力の描写などが上手く書かれていることにもよるのでしょう。特に紫穂のサイコメトリーの描写は「読み取った情報」を言葉で直接説明できる小説の利点が生かされ、マンガよりも使い方が理解しやすかったように思います。

オールキャスト総出演と書きましたが、実際オリジナルキャラからチルドレンの同級生・家族、バベル職員、コメリカエスパー、パンドラまでまんべんなく活躍させており、ファンとしては嬉しいところです。流石三雲岳斗というところでしょうか。実に器用です。


後書きなどを読むと元々椎名高志のファンだったようですし。そのあたりが上手く作用したのでしょう*1

敵キャラになる威河がテロを通じて、エスパーとノーマルの共存のために作ろうとした目的。エスパーの独立自治区の政治的な妥当性あたりに疑問などがあったりはしますが、ファンとしては、普通に読んで楽しめる良作と言えると思いました。

*1:ブログなどを読むと、椎名高志三雲岳斗のファンだったようで、幸せなノベライズです

時の声

時の声 (創元SF文庫)

時の声 (創元SF文庫)

57年から62年の間に書かれたバラードの初期作を収録した短編集。果てしない宇宙の広がりを背景にした表題作から、アイデアSF的な作品、奇妙な味を感じる作品まで、その形態はさまざまながらも、その多くの作品には世界を知覚すること、認識することへの執着が感じられる。
この諸短編の登場人物達は、多くは破滅に向かっている世界のなかで、抗うことなく受動的それを受け入れる。その時破滅は、登場人物達の多くがどこか欠損し不完全である感覚、知覚を通じて、なにかが欠けた身体的な体験を通じて記述されるのだ。そしてそれが読者に世界の滅びを強烈に印象づけるのではないだろうか。

そこに「外なる現実と内なる精神が出会い、融けあう場所」としての「内宇宙」を見ることもできるのかもしれない。

ただ滅びる世界があるのではない。滅びる世界で滅びる人間の身体を、(それに伴って必然的に)不完全となった認識に則って表現する。それがバラードの破滅のヴィジョンが他を圧して魅力的な理由だと、私には感じられる。

白人とは何か?:ホワイトネス・スタディーズ入門


白人とは何か?―ホワイトネス・スタディーズ入門 (刀水歴史全書)

白人とは何か?―ホワイトネス・スタディーズ入門 (刀水歴史全書)

「白人」という概念を人種的身体的な問題としてとらえるのではなく、社会的に構成されたものとしてとらえ分析する。そのような問題意識の本に編まれた論集です。編者の藤川隆男の白人研究の見取り図を示す理論的な論文と、他の研究者による個別事例の分析論文が掲載されています。

白人は、普遍的な人間存在の象徴として、正常なもの、すべての人間の基準となるものとして存在したために、それ自体が問題化されることなく、観察の対象となることなく、見過ごされてきたのである。白人は常に観察者の立場にあり、軌範の設定者として、マイノリティ問題を探求してきた。このようなやり方は、明らかに限界にきている。(p.8藤川隆男「白人研究に向かって」)

このような観点から、普遍的存在としての白人ではなく、特殊な対象として研究の対象にする。未開社会を研究するのと同一の視点から白人を研究する。そこでは「白人」は人種としてのコーカソイドにとどまらず、ある面ではユダヤ人日本人黒人も白人になりうる。

このような視点は、当然サイードの『オリエンタリズム』等のポストコロニアリズム研究の延長線上にあり、それを発展させるものと読むことができます。その点からは、一定の成果を上げていると思います。特に不完全な他者を設定することで定義される「白人性」の概念を考えることは、これまで白人とひとくくりにされてきた人々の中での階級的問題(論文の中でも取り上げられている、アメリカにおけるアイルランド移民の問題等)や日本人等の非白人者が外部(アジア、アイヌ等)へむける眼差しの分析に有用でしょう。

しかし、私的な印象としてはそれほどのインパクトは感じなかったというところです。確かに白人が構築されたという視点は正しく有用ですが、ただサイード等の議論の枠を越えるものはないですし、思想的に強烈に我々の概念を揺さぶるというものではないと思いました。そのため全体論も個別研究もこれまで積み上げられてきた、ポストコロニアリズム的歴史社会研究の変奏と感じられ、「白人研究」を行う決定的な重要性が正直見えにくかったと感じました。

ただ、編者によると白人研究は特に欧米で非常に盛んになっているようですし、そこからやもちろん日本から新しいパースペクティブを提供するような研究が出てくることは期待ですね。

 コードギアス 反逆のルルーシュ R2 TURN6 「太平洋 奇襲 作戦」

コードギアス 反逆のルルーシュ R2 volume01 [DVD]

コードギアス 反逆のルルーシュ R2 volume01 [DVD]

毎回怒濤の展開で楽しい楽しい。(mixiにアップしたテキストを改稿したものです)

今回の見所
これまでの渇望をたっぷりと満たしてくれる素晴らしいロイド伯爵分の補給(どうやら私は放蕩貴族という属性が相当好きらしい)
とうとう愛を叫んで、ついでにふられたシスコンルル山の叫び。
オレンジという単語の魔力。
史上有数に濃い弟キャラだった皇帝陛下。
いろんな意味でかっこよすぎな紅蓮の空中換装とナイス空戦作画
瞬間最大風速的に素晴らしかった、艦隊指揮艦の小物っぷり(傲慢、油断、保身、自滅、頓死の小物フルコンボを決めてくれました)


ただ、やはりストーリーの本質は、ナナリーによる行政特区日本の設立の意思表明と、それによって闘う意味自体をなくすルルーシュでしょう。そして次回が「棄てられた 仮面」

これは、まず実は完全にナナリーを精神的な支配下におき依存していた(庇護という形で)ルルーシュの自立の伏線とも言えるし、物語として主人公の挫折と復活のプロットと読めるわけですが。



別の見方をすると、これまでルルーシュの行動原理の根本的な転換とそれによる作品ないでの位置の変化というものがあるように見えます。

作中でルルーシュの行動原理として「ナナリーの幸福」が置かれていたわけです。そしてそれは、わりと超越的な位置に置かれてきたものでした。この原理を把握共有しているのはルルーシュ本人と(これに関しては消極的共犯者にとどまる)C.C.のみです。そしてルルーシュはこの原理に乗っ取り、一人だけおのれのみの独自の論理で動き、他の原理を操縦する行動原理の面で超越的特権的な位置に立つことが可能だったように思います。「ナナリーの幸福」の立場から、「黒の騎士団の日本開放」を操り、「ブリタニアの正義」と戦い。「スザクの正しい手続きの変革」と対立した。彼らの原理と行動を結局は「ナナリー」という高所からメタ的に把握し操作していたと言えるのでしょう。

しかし今回ナナリー自身がそれまでの受動的な立場を棄て、その幸福を自ら実現する立場となったこと。すなわち作品中でナナリーが行動主体となることで、「ナナリーの幸福」のためというルルーシュ本人の行動原理は失効してしまいます。それはすでにナナリー本人(とスザク)に行動主体が移ってしまっているからです。

この6話でのルルーシュのあの姿はその超越的な位置を失い。ブリタニアの正義や黒の騎士団の大義、さらにはスザクの目標といった他の価値と同レベルの場所に落ちてしまったということではないでしょうか。
これは、これまで、価値の面で特権的超越的な立場にあったル)が他の登場人物と全く同じ位置に降りることを意味すると思います。

余談ながら我々が圧倒的にルルーシュに感情移入しやすかったのは、彼がこの超越性を持って、番組世界をメタ的に把握する。視聴者の立場近いところに存在しえたからと思います。


そのルルーシュの姿の象徴こそが、「仮面の破棄」=顔を隠した、名を持たないゼロとして、ある種の超越を勝ち得ていたそれを捨てることではないでしょうか。

さて、そのように作品の構造的にも敗北したルルーシュが、どう物語のゲームに復帰するのか、そのあたりの物語構築の論理こそがこれからの放送の楽しみどころではないでしょうか。果たして再び超越的な立場に何らかの方法で返り咲くのか(そのような原理は今のところ見あたらないけれども、あの「神を殺す」という謎のキーワードは気になります)
それとも全く別の原理を選びなおすのか。これからが実に楽しみです。

 葉桜が来た夏

第14回電撃小説大賞<選考委員特別賞>の本作。200X年(何か微妙に懐かしい感じがする表現である)宇宙より琵琶湖に、巨大な十字架型宇宙船が飛来。そこに乗っていたのは、すべて圧倒的な身体能力とテクノロジーを持つ女性型の宇宙人「アポストリ」。激しい戦闘を経て和解した二つの種族は、琵琶湖のほとりの彦根市に壁に囲われた「特区」築きそこで共存を開始した。その共存のシステムの根幹となるのが、”共棲”というアポストリと人間の共同生活。過去のある事件がきっかけでアポストリを恨む主人公「学」は特区の要職に就く父親の命によりアポストリ「葉桜」共同生活をすることが決まる。

まあ、読むきっかけのひとつに、舞台が滋賀県(の湖東側)だったという、実に滋賀県民的な理由はあるわけです。といっても彦根市はそれほどなじみがない街なので、せいぜい主人公が通っている高校のモデルがわかる程度でしたが(彦根東校ですね。進学校ですね。だからなんだという程度です。

SF的な設定の上にラノベのキャラクター性が上手く乗って、一巻完結のデビュー読み切りとしては良質の作品だと思いました。まあ、SF設定としてはとってもたくさん突っ込みたいところはあるのですが。そこは流して、少年と少女の恋愛要素が絡まない。お互いを個人として認め合う過程を上手く描いているところが好印象でした。

大きな不満点としてはページ数の関係なのか、主人公の心境の変化(過去の怨念を乗り越える過程)が言葉足らずには感じたところはありましたね。


いろいろと過去話の展開や、これからの二人についてなどかけそうな感じなので続編もありそうであるけど、作者はもっとSF的なものを書きそうな感じなのでよりハードなヤツもありではないかなあとも思います。

悪魔の薔薇


悪魔の薔薇 (奇想コレクション)

悪魔の薔薇 (奇想コレクション)


タニス・リーのファンタジーの魅力をあえて乱暴に語るとするなら。一人の人間などをあっさりと置き去りにするような巨大な世界と長大な時間が醸しだす「力」と、それを「美しさ」と「愛」に何の抵抗もなく結びつけてしまう、官能性と華麗な文章と言うところでしょうか。(すべて翻訳されているわけではないし、私もすべて読んでいないのであくまで私が読んだ範囲の印象ということで)
その一つの極地が≪平たい地球≫シリーズであるのはもちろんですが、本作品集に収められた9編からもその魅力は十全に感じることができます。

以下特に印象に残った作品の簡単な感想

「別離」
女吸血鬼の永遠に続く生を彼女に使える従者の老いと死を通じて描き出す。そこで美しくあらわれるのは「愛」というあたりが、実にリーの作品らしくて好きです。

「悪魔の薔薇」

表題作で作者曰く「この作品は私の作品の中でももっとも恐ろしいもののひとつ」だそうですが。確かに恐ろしいけど、まさかこういう方向で恐ろしいとは……。上記のリーの魅力とはちょっとずれるけど、色んな意味で悪意に充ち満ちた嫌な意味でいい作品。


「青い壺の幽霊」
神にも等しい力を持つ魔道師「十の絡繰の主スピュルス」のもとに持ち込まれた死者の魂が封じ込められた青水晶の壺と、彼が執着する美女ルナリアの案外愛の物語。なんといっても、魔道師スピュルスの設定や描写が素晴らしい。不死となり世界に倦む魔道師の退廃。「十の絡繰」の設定。イメージ喚起力抜群の文章によって紡がれる広大なでもどこか箱庭的な世界。10代の頃ヘンなRPGの設定資料集に萌えまくった人間にはいちいちたまらないものがあります。
リーの作品の魅力のひとつに「魔法使い」のかっこよさ。老賢者ではなく、妖魔的悪魔的な魔道師の怪しさがあると言えるなら、その魅力が全面に押し出た作品と言えるでしょう。最後の割と切ないオチもあっていちばん好きな作品です。

ここで紹介しなかった作品も私的には満足がいくものが多く。楽しく読めた短編集でした。それにしても解説を読んでいると未訳の長編が、それも面白そうなヤツがいっぱいあるようです。どこかで翻訳して欲しいなあ。特に大人向けSF・ファンタジー分野への本格デビューになった"The Birthgrave"なんか、国書とか河出とかで出ると面白いと思うけどなあ(いや、もちろんハヤカワFTで出るならそれにこしたことはないですが→FT愛好者のつぶやき)

 ぼくは、おんなのこ

ほぼ三ヶ月ぶりに復帰。特に何かあったわけではないですが、また何となく感想を置いていきたいと思います。



ぼくは、おんなのこ (Beam comix)

ぼくは、おんなのこ (Beam comix)

私は志村貴子の作品が大好きである。しかしその作品について語ることは、実に困難である。
その理由は単純だ。彼女の作品の多くの主要テーマが(すべての作品ではもちろん無いのだが)思春期の、「女の子」にあこがれる少年であり、自分の男性性を受け入れがたい少年であるからだ。*1
そしてその少年について語ることは実に楽しい。いうまでもなく自分自身の欲望を語ることであるからです。「傷つける性である男は醜悪である。乙女になりたい。性を否定したい。そしてそんな欲求を持つ自分は女の子を傷つけない」という欲望を。

いうまでもなくこれは欺瞞に満ちています。いくら言葉で性を否定したところで、自分の性を性欲を倦んだところで、自らの身体から逃れられない(本気で逃れる覚悟もない)我々の言葉は単なる逃げにすぎない。それよりも、自分の性を受け入れそこから女性との関係性を構築しなおす覚悟を持つ方が建設的でしょう。(なにより自分自身に対して言えることですが)


と自分語りになりましたが、そんな感じで志村作品を語るのは難しいといいつつ、紹介した作品について語ると。1997年の読み切りから2004年の書き下ろしまで。志村貴子という作家の魅力をじっくりと味わえる短編集ではないでしょうか。

上記の欲望を強く意識させるような表題作から(今とは異なるスクリーントーンを多用した絵柄も興味深い)女性の家庭教師に思いを寄せる少女を描いた書き下ろしまで、そこに共通するのは我々読者を「傍観者」の立場に、登場人物の心情に同化させないある種絶対的な壁のような感覚でしょう。
それは、単行本の最終ページ2004年に書き下ろされた読み切りのラストページ。家庭教師に思いを寄せる少女がマラソン大会のスタートラインに立つ姿を背後からとらえたカット。少女の背中が遠くに見えるカットと共に

完走できたら言ってみようかな

という少女の心が映し出されるシーンに集約され。またそこに我々は志村貴子のマンガの尽きぬ魅力を見るのだと思います。

*1:もちろんその代表は『放浪息子』だが他の作品にもそれが変奏されていると思う。