マクロスF 第6話 「バイバイ・シェリル」


思わず「これは良い最終回ですね」とつぶやくほどに、完成度が高かったというべきでしょうか。

シェリルのライブとかぶせられ、「ダイアモンド クレバス」に乗せて進行するアイランドワン出撃は、「これまでとこれから」という言葉が連想されるほどに、マクロスFという物語があらたなステージに入ったことを印象づける名シーンでした。

アイランドワンブリッジにはキャシーがまるで、無印シリーズの某航空管制主任のごと着任し、こちらも実はレオン・三島とオズマ少佐との三角関係なんだなあと感じさせたのでした。(相当どろどろの)

あとそうですね。レオン・三島(CV杉田智和)氏はもう実に良い小物です。近年無かったくらいに良い小物の匂いがします。これからの彼の動向には、正直主人公たちの三角関係ぐらい目が離せません。


さてこの作品を見る上で割と面白いなあと感じていることが、主人公アルトが本当に「美形」として設定されていて、そのように描かれていることですね。
まず普通の主人公が男性の場合明確に美形とされることは少ない(してもしょうがない) 平凡な顔(いわゆるギャルゲ主人公顔)かワイルドマッチョ系の顔(熱血系)。これは男性が見るアニメの主人公造形としては常道でしょう。感情移入の主体となるか、熱血描写の核になるためには美形はあまり適さない。

もしくは美形となっていてもそれほどまわりと大差がない(まわりも同レベルの美形)となっている場合。これはいわゆる女性向けとか、コードギアスとか(笑) 美形の男子が並列していろいろやることが求められる作品。これも主人公だけが突出することは求められない。

ただ、このマクロスFのアルトは「美形」です。女形を務められる女性的な顔や長い髪。立ち振る舞いなど、他の男性キャラ(美しくはあるけど)とは明らかに一線を画しているという印象があります。それはデザインだけでなく、実際の作画の部分でもおそらく意識して他の男性キャラから外れるように描かれているように(あくまで印象ですが感じます。光の当て方とか?)

それはシェリルも同様で彼女も明確な「美女」です。他の女性キャラを一段抜くように描かれています。何というか光っている。

で、そのあきらかな美男美女の二人と、どこまでも「可愛い」ランカ(彼女のキャラデザは明らかにテンプレの可愛い萌えキャラですね。目とか)の三角関係は単に設定的な部分だけでなく、絵的な部分でも激しい緊張感を生じさせているように思うのです。


というわけで割と作画の動きではないところにもかなり細かい配慮と、演出が行き届いているのが本作の大きな魅力なのではないかなあと思うのでした。

 アッシュベイビー AMEBIC


アッシュベイビー (集英社文庫)

アッシュベイビー (集英社文庫)

AMEBIC (集英社文庫)

AMEBIC (集英社文庫)

金原ひとみの作品は今回が初読でしたが、とても面白く読めました。

以下はその印象

両作品は、主人公の女性の自らの身体をめぐる物語のように感じられました。

アッシュベイビーの主人公アヤはどこまでもヤリマンで作中のすべてにセックスがあふれる。
AMEBICの主人公<私>は食べることを嫌悪し飲み物とサプリと漬け物しか口にしない女性によって、逆説的に食事があふれる。
セックス・食事共に身体と不可分に結びついた行為であり、身体をもってこの世界で生きることそのものであるともいえる。
ともに身体が外部とつながる行為でもあるといえるのかもしれない。セックスは他者と、食事は世界と。それぞれ異物を身体に取り込み自らの一部を異化/生かしていく行為だ。
そして、アッシュベイビーでは村瀬という空虚のメタファーのような男に惚れて結婚までしてしまった主人公は、その空虚に取り込まれるように、セックスに意味を失っていき、ペドフィリアのルームメイトがさらってきた生後間もない女児と同化していく。
AMEBICでは主人公は決して食べることないお菓子を作り続け、それを棄て続ける。
それはまるで彼女らの身体が、統一体から切り離され、裁断され、そして灰となって消えていくようにも見える。

そうして作品の中には、言葉があふれ出す。その身体が無くなった空隙を埋めるために、圧倒的に饒舌であろうとしているように。
AMEBICでは主人公が半ば無意識のうちに書き散らす「錯文」が彼女を包囲していく。
またアッシュベイビーでも、主人公は自らのセックスについて、身体について、傷について不必要なほどの言葉を生み出していく。
そして作品の中にはいつしか身体が無くなり、饒舌な言葉の海だけが残っていく。
だがそれこそが、身体を何よりも強く表現しているように私には思えたのだった。消滅するような名づけがたい身体の死を通して何よりも強く身体をもつことのきしみを叫んでいるように。

 13人目の探偵士


注意:基本的にある程度ネタバレありで語っていますので、念のため。

こいつはなんともパンクな事件だぜ。被害者も探偵、容疑者も探偵、犯人も探偵、そして、それを追っかける探偵ももちろん探偵。(p.292)

探偵が捜査権を持ちシャーロック・ホームズが実在する現実と少しずれたパラレル英国を舞台に、記憶を失った男、探偵殺し、パンク刑事。
と魅力的な設定と物語が展開していきます。またもともとゲームブックであったところを生かし、複数の可能性を同時に提示していく形式も魅力的です。選択肢があるゲームブックの形式をそのまま取り込み、語り手である記憶を失った男が巻き込まれる事件を、3人の探偵が別々の方法論で推理する物語が並列されています。また、その物語の中でも、語り手は間違った選択肢を選び、ゲームブックならゲームオーバーの状態を経験し、その後なぜか再び物語に復帰する。まるで、いくつものパラレルワールドを経験するように。結果3人の探偵の推理はすべて的外れで、お互いを告発し合い、真相は探偵でないパンク刑事キッド・ピストルズに導かれた、実は探偵であった記憶を失った男のもとにもたらされます。
しかし、その着地点において男は、(量子力学的な)パラレルワールドについて語られ、彼のそれまでの体験(3人の探偵の推理)の2つもしかしたら3つぜんぶがコンピューターによるシミュレーションである可能性を示され、ある種の現実崩壊を体験するところで終劇となります。

さて、ミステリの魅力とは何かと考えたとき、その「謎」の求心力があると思います。
不可解な事件、不可能な死、あり得ない状況。それらが提示されその不可解さに引っ張られ、そしてその最後に、その謎が論理によって切り分けられ解決される。
それまで、不可能犯罪・不可解状況という形で「わからない」状態である世界を、論理という手段によって、「わかる」状態に、日常へと変化させる。それはまるで、不確定の世界を「観測」することによってひとつの世界に確定させるという量子力学の分野の世界認識のようでもあります。もちろんこの特権的な「観測者」が「探偵」であることは論を待ちません。
謎という言葉が含む様々な可能性を真相という言葉が示すひとつの真実に確定させる装置と探偵を呼ぶことができるかもしれません。
しかし本作においては、まず探偵が社会の中に実在し、探偵が殺される殺人事件が起こり、それを別の探偵達が捜査し、そして結局その犯人も探偵であるという探偵づくしの事件です。犯人自身が探偵であったために、彼は被害者と見なされ終劇の現実崩壊感覚は、シミュレーションやパラレルワールドいうSF設定やだけではなく、それよりもむしろ、探偵が探偵でなくなる。真実を確定させる特権的な存在である探偵が、その特権的な地位を剥奪され、物語のひとつの駒としての存在でしか無くなってしまう。そのとき我々読者は、浮遊したままの謎の内に、確定されない世界の中で、迷うのかもしれません。

 円環少女(6)太陽がくだけるとき


新刊が出るたびにいろんな意味での暴走が激しくなる絶好調SF魔法少女シリーズ。東京地下を舞台にした、怒濤の三部作の最終刊である本巻。非常な傑作だと思いました。
ここでは、子供によって大人の「政治」が打ち破られる。それが正しいか、間違っているかは置くとして、それがエンターテイメント的な快楽として読者の心を揺さぶるのです。

まず元学生運動家テロリスト国城田の行ったことは「テロリズム」であり、「政治」です。核爆弾の恐怖と、それを実際に爆発させることで引き起こされる首都東京の壊滅による混乱をもって「日本」という国の欺瞞に満ちた秩序、堕落しきった安寧を破壊すること。
安寧の中に矛盾と「悪」を覆い隠した日本という国家の形を破壊し、「怒り」を目覚めさせる。それはおそらく一種の国家否定、アナーキズム的なビジョンにつながっているのでしょう。
それに対して、主人公仁の行動原理は、メイゼルを守りたい。そして東京の地下としてであった子供たちを守りたい。それだけです。そこには国城田のような理念はなく、ただ個人としての強い思いがあるだけです。
それは、彼自身も認めているように「子供の理屈」であり、大人のそれではありません。それゆえに彼は、「組織人」であることができず、魔導師公館をとびだしてしまうことになります。
その二人の対決は、根本的にはかみあいません。一応の政治と一時の激情、それはまったく別の次元のものであるからです。
しかし作中でのこの二人のぶつかり合いは、仁の勝利で終わります。その対決ではいつの間にか国城田のテロリズムと政治の主張は、「守るべき者」をめぐる国城田と仁の個人の信条の対決に置き換わり、
それは仁が「答え」を出すという形で、結果的に国城田の政治を打ち破ります。これはあくまで結果としてで、仁が国城田のテロリズムを政治的に否定するのではなく、あくまでも個人として答えを出し、個人として国城田を打ち破る形になっています。
そこで私たち読者は主人公である仁と同調し、その「答え」への疾走と同調することで、エンターテイメント的な快楽を得ます。
そこには、基本的に青年というか少年?を対象としているライトノベルの(少年マンガにも通じる)特徴でありおもしろさであると思えます。

それは、本作が下敷きにしていると思われる作品である「機動警察パトレイバー2」との比較するとより明確になってきます。
機動警察パトレイバー2(以下P2)は、テロリズムによる戦争の現出、東京の地下空間と本作と通じるモチーフが多く最も大きな元ネタになっている作品であることは間違いないと思われます。
しかし、大きな違いも存在します。P2では元自衛官の柘植により、東京に戦争が演出され、「血まみれの平和」という言葉によって、日本という国が欺瞞を告発します。
それは本作での国城田と基本的に同じと言えます。そしてそれに対抗する特車二課の後藤は「正義の戦争より、不正義の平和」
「幻の街で、現実を生きる人を守るため」に柘植を逮捕します。そこで後藤は組織を逸脱していても、結局「警察官」として
「まともでない役人」として柘植を「逮捕」するのです。
それは、最後に個人として国城田と相対した武原仁とは対照的な姿であり、個人として突っ走るはずの特車二課の面々が最後まで排除されていたことを合わせて、
そこに私はP2と円環少女の差異を、ライトノベル少年マンガの特質を見るのです。

またこの両作は、ラストシーンでも明確な違いを見せています。円環少女においては答えを出した仁が一応メイゼルとの日常に回帰するところで、仁が新しい段階に進むところで終わっています。
(ある種の勝利とも言える。)P2では柘植の有名な台詞「もう少し見ていたかったのかもしれんな、この街の未来を」という言葉で締めくくられ、そこには逮捕されたとしても結果としてみれば
成功した柘植の試み(東京、日本に戦争は現出された。)の成功を示唆し、その後の東京、日本の形に思いを至らせる形で終わっています。
その最終的な着地点の違いからも、両作のある意味対照的な姿が見えてきて個人的には興味深かったし、本作円環少女がこの方向、完全に大人向けの題材を子供の向けの論理で解き明かすそれをどこまで追求できるかもまた、楽しみでなりません。

 となりの宇宙人


となりの宇宙人 (河出文庫)

となりの宇宙人 (河出文庫)

血とその他いろいろな液体にまみれた、強烈な伝奇SF小説でなじみ深い著者のSF短編集。
ただ、収められている作品はそれらとは全く異なっていて。とぼけたタイトルが印象的な表題作を初めとして、どれも「日常+サラリーマン」な世界にある日異常が滑り込んでくるという味わいの作品が多いです。その異常もいかにもSFというような横行なものというよりも「すこし・ふしぎ」とでも言いたくなるようなものです。(世界の終わりの話もありますが)

その味わいの本になっているのは先にも挙げた「日常」という概念ではないでしょうか。それはただ日常的なシチュエーションに事件が起きるというだけではなく、主人公の語り手のひいては著者の視点が、実に日常的なところに張り付いているから。その視点は、異常=SFを日常のなかに位置づけてしまうような。たとえ世界が崩壊してもどこか世界が連続したようなまなざしがそこには残っている。そう感じました。そしてその日常というのは当然のことながら「昭和」の日常です。その昭和の空気を、平成で21世紀に生きている私が日常的だと感じながら読む、それはとても面白いことのように思うのです。



余談。

収録作の一つ「ボール」。ある日突然世界にボール型の宇宙生物(?)が現れ、世界の道路を占拠するという、なかなかビジュアル的にも迫力のある作品なので、好みの作品の一つなのですが、この作品の。この道を占拠するボールのイメージは、佐藤順一OVA「魔法使いTai!」のツリガネの元ネタになっているのではと愚考したりしますが、どーなんでしょう。(ツリガネと違って色々破壊しまくりますがね…… まあ、そう何となく感じたので書くだけ書いてみた)

 片道きゃっちぼーる

片道きゃっちぼーる

片道きゃっちぼーる


ドラマのように、二人とても息のあったダイアローグにならないし


と軽快に始まる四分三十秒ほどのこの楽曲。「ぽてまよ」のOPとして、耳になじんでいましたが、レンタルしてみてフルで聞いてみると、とても強く印象の残る作品でした。

以下その印象を例によってまとまりなく記してみます。

この曲にはまず、人と人との間にある絶対的で埋めがたい「距離」があります。
そしてそれを前提にした上でのコミュニケーションへの前向きな意志が歌い上げられています。
思いがそのまま伝わらない、ままならない「ズレた世界」に絶望することなく、「結び方がわからない赤い糸」を絡ませながら、「少しずつ寄り添っていく」。
でもきっと、同じ世界に立つことは決してない。だからこそ、いつも、毎日、毎回、すべてが伝わりきらないことを分かった上で、伝わりきらないからこそ「言葉」を交わし続ける。

少し引用

ふにふに みんな かみあわない
ムリにねじって ドーナツになるより
そのまま手をつないで
ズレた世界で今日もおはよう



ここには、解読など必要がないほどにわかりやすく、口ずさみたくなるほどに詩的に、ズレた世界でつながり合おうとする意志があります。ズレているから、ズレていても、手をつなぐことができる。言葉を交わすことができる。それはきっと希望です。

その希望は、人と人の「距離」に絶望し、安易に自閉的な「私とあなた」という閉じたムリな関係性に、絶望的な「希望」を「願望」を見いだそうとする、凡百なエセ恋愛賛歌よりも
ずっとずっと強く好ましく私には思われるのです。


そしてこの楽曲は以下のような詞で締めくくられます。

ふにふに みんな かみあわない
言葉の色が 風に消えるのを
確かめるように 素直に
ズレた世界で今日もおはよう

ほにほに 君と おはよう


ここでは、とうとう「言葉の色が風に消える」といえる詞で、言葉の意味=コミュニケーションの内実保証さえもがずれた世界のズレの中に飲み込まれます。
つまり「言葉」という関係性を担保するツールさえも危機にさらされます。

でも、その中で、すべてがズレた世界で、「おはよう」と発する。「おはよう」という、朝一番の挨拶=コミュニケーションの開始の合図を続ける。
コミュニケーションの内実が保証されないから絶望するのではない。保証されないからコミュニケーションをあきらめない。
そこでは、「君とおはよう」と言い続けられる「関係性」が、その継続と保証が、ズレた世界をズレた世界のまま受け入れて、楽しく生きていく。
その「希望」になっているように感じられたのでありました。



と、詞についてもっぱら語ってきましたが、曲も私的にはかなり好みで(うまく語る言葉は持ちませんが)ひとつの楽曲としてとてもすばらしいものであると思います。

 ブラッド・プライス


ブラッド・プライス―血の召喚 (ハヤカワ文庫FT)

ブラッド・プライス―血の召喚 (ハヤカワ文庫FT)


カナダの売れっ子作家による。サスペンス・ハードボイルドファンタジー(?) 

やっぱりファンタジーファンとしては、しっかりハヤカワ文庫FTは押さえないとなあ。といういささか不純な動機からでしたが、予想以上におもしろく、かなり楽しめました。
以下普通にネタバレなので注意。まあそれほどネタバレして困る作品でもないのですが

トロントで発生した、連続殺人。被害者はのどを切り裂かれ、血を吸い取られていた。
トロント警察殺人課の現私立探偵、ヴィッキー・ネルソンは、被害者の恋人から依頼を受け、調査を開始する。

という、かなりベタなサスペンス・ハードボイルドな導入から、当然FTなので吸血鬼が出てきたり……

ストリー自体にもそれほどの驚きはなく、実は犯人は何ものかによって召還された「魔物」であり、それを阻止しないと魔王が召還されて…… と王道といえば王道。
でも、さすが売れっ子作家というべきか、キャラクター造形の上手さや、会話のおもしろさ、タイミング良く主人公以外の視点を導入する上手なストーリー回しによって、その王道が引き立ち、エンターテイメントとして最後まで、楽しい読書ができる秀作でしょう。

私的には、主人公のヴィッキーがメガネ美人であることやら、中盤から登場して、主人公と協力する吸血鬼で450年前のイングランド国王ヘンリー八世の庶子ヘンリーのこれまた実にベタな吸血鬼人生とかがツボだったりしましたが、
一番は、魔物の召喚者、つまり犯人ノーマン君です。

彼がなぜ魔物を生み出し、殺人を犯したのか。理由はひとつ モテないからです。オタクとさげすまれるからです。女子に笑われるからです。世界が優しくないからです。

彼の非モテっぷりを少々


誰も彼もがいつもぼくを笑うんだ。最後に笑ったやつは、野球選手に選ばれた。他の子とまったくおんなじ服なんか絶対着てやるもんか。あいつらはぼくが満点をとってさえ笑うんだ。実際にあったことを包み隠さず他の子たちに言うのはやめていた。Aプラスを取ったレポートとか、先生方から補助教材に採用されたプロジェクトとか。科学フェアで三年連続して一等賞を取ったこととか、週末に『戦争と平和』を読破したこととか。
彼の戦果にあいつらはこれっぽっちも興味を示さなかった。いつも笑っていた。
ちょうど、彼女が笑ったように。(p. 219)

これまでに自分を笑ったやつの代表格がコリーンだった。フットボール選手には大股を開くくせに、彼には見向きもしなかった女どもの代表。おまえなんかこの世にいないと言わんばかりに押しのけていくスポーツ野郎どもの代表。(p.280-1)


ああ、非モテ言説を引用しているとなぜこんなに楽しいのだろうか、そしてなぜこんなに痛いのだろうか……

とまあ、冥府魔道に落ちた非モテの切なさも楽しめますよと(それでいいのか、というところは問わない方向で)


本作は五部作の第一作ということで、続きの翻訳が待たれるところです。