円環少女(6)太陽がくだけるとき


新刊が出るたびにいろんな意味での暴走が激しくなる絶好調SF魔法少女シリーズ。東京地下を舞台にした、怒濤の三部作の最終刊である本巻。非常な傑作だと思いました。
ここでは、子供によって大人の「政治」が打ち破られる。それが正しいか、間違っているかは置くとして、それがエンターテイメント的な快楽として読者の心を揺さぶるのです。

まず元学生運動家テロリスト国城田の行ったことは「テロリズム」であり、「政治」です。核爆弾の恐怖と、それを実際に爆発させることで引き起こされる首都東京の壊滅による混乱をもって「日本」という国の欺瞞に満ちた秩序、堕落しきった安寧を破壊すること。
安寧の中に矛盾と「悪」を覆い隠した日本という国家の形を破壊し、「怒り」を目覚めさせる。それはおそらく一種の国家否定、アナーキズム的なビジョンにつながっているのでしょう。
それに対して、主人公仁の行動原理は、メイゼルを守りたい。そして東京の地下としてであった子供たちを守りたい。それだけです。そこには国城田のような理念はなく、ただ個人としての強い思いがあるだけです。
それは、彼自身も認めているように「子供の理屈」であり、大人のそれではありません。それゆえに彼は、「組織人」であることができず、魔導師公館をとびだしてしまうことになります。
その二人の対決は、根本的にはかみあいません。一応の政治と一時の激情、それはまったく別の次元のものであるからです。
しかし作中でのこの二人のぶつかり合いは、仁の勝利で終わります。その対決ではいつの間にか国城田のテロリズムと政治の主張は、「守るべき者」をめぐる国城田と仁の個人の信条の対決に置き換わり、
それは仁が「答え」を出すという形で、結果的に国城田の政治を打ち破ります。これはあくまで結果としてで、仁が国城田のテロリズムを政治的に否定するのではなく、あくまでも個人として答えを出し、個人として国城田を打ち破る形になっています。
そこで私たち読者は主人公である仁と同調し、その「答え」への疾走と同調することで、エンターテイメント的な快楽を得ます。
そこには、基本的に青年というか少年?を対象としているライトノベルの(少年マンガにも通じる)特徴でありおもしろさであると思えます。

それは、本作が下敷きにしていると思われる作品である「機動警察パトレイバー2」との比較するとより明確になってきます。
機動警察パトレイバー2(以下P2)は、テロリズムによる戦争の現出、東京の地下空間と本作と通じるモチーフが多く最も大きな元ネタになっている作品であることは間違いないと思われます。
しかし、大きな違いも存在します。P2では元自衛官の柘植により、東京に戦争が演出され、「血まみれの平和」という言葉によって、日本という国が欺瞞を告発します。
それは本作での国城田と基本的に同じと言えます。そしてそれに対抗する特車二課の後藤は「正義の戦争より、不正義の平和」
「幻の街で、現実を生きる人を守るため」に柘植を逮捕します。そこで後藤は組織を逸脱していても、結局「警察官」として
「まともでない役人」として柘植を「逮捕」するのです。
それは、最後に個人として国城田と相対した武原仁とは対照的な姿であり、個人として突っ走るはずの特車二課の面々が最後まで排除されていたことを合わせて、
そこに私はP2と円環少女の差異を、ライトノベル少年マンガの特質を見るのです。

またこの両作は、ラストシーンでも明確な違いを見せています。円環少女においては答えを出した仁が一応メイゼルとの日常に回帰するところで、仁が新しい段階に進むところで終わっています。
(ある種の勝利とも言える。)P2では柘植の有名な台詞「もう少し見ていたかったのかもしれんな、この街の未来を」という言葉で締めくくられ、そこには逮捕されたとしても結果としてみれば
成功した柘植の試み(東京、日本に戦争は現出された。)の成功を示唆し、その後の東京、日本の形に思いを至らせる形で終わっています。
その最終的な着地点の違いからも、両作のある意味対照的な姿が見えてきて個人的には興味深かったし、本作円環少女がこの方向、完全に大人向けの題材を子供の向けの論理で解き明かすそれをどこまで追求できるかもまた、楽しみでなりません。