片道きゃっちぼーる

片道きゃっちぼーる

片道きゃっちぼーる


ドラマのように、二人とても息のあったダイアローグにならないし


と軽快に始まる四分三十秒ほどのこの楽曲。「ぽてまよ」のOPとして、耳になじんでいましたが、レンタルしてみてフルで聞いてみると、とても強く印象の残る作品でした。

以下その印象を例によってまとまりなく記してみます。

この曲にはまず、人と人との間にある絶対的で埋めがたい「距離」があります。
そしてそれを前提にした上でのコミュニケーションへの前向きな意志が歌い上げられています。
思いがそのまま伝わらない、ままならない「ズレた世界」に絶望することなく、「結び方がわからない赤い糸」を絡ませながら、「少しずつ寄り添っていく」。
でもきっと、同じ世界に立つことは決してない。だからこそ、いつも、毎日、毎回、すべてが伝わりきらないことを分かった上で、伝わりきらないからこそ「言葉」を交わし続ける。

少し引用

ふにふに みんな かみあわない
ムリにねじって ドーナツになるより
そのまま手をつないで
ズレた世界で今日もおはよう



ここには、解読など必要がないほどにわかりやすく、口ずさみたくなるほどに詩的に、ズレた世界でつながり合おうとする意志があります。ズレているから、ズレていても、手をつなぐことができる。言葉を交わすことができる。それはきっと希望です。

その希望は、人と人の「距離」に絶望し、安易に自閉的な「私とあなた」という閉じたムリな関係性に、絶望的な「希望」を「願望」を見いだそうとする、凡百なエセ恋愛賛歌よりも
ずっとずっと強く好ましく私には思われるのです。


そしてこの楽曲は以下のような詞で締めくくられます。

ふにふに みんな かみあわない
言葉の色が 風に消えるのを
確かめるように 素直に
ズレた世界で今日もおはよう

ほにほに 君と おはよう


ここでは、とうとう「言葉の色が風に消える」といえる詞で、言葉の意味=コミュニケーションの内実保証さえもがずれた世界のズレの中に飲み込まれます。
つまり「言葉」という関係性を担保するツールさえも危機にさらされます。

でも、その中で、すべてがズレた世界で、「おはよう」と発する。「おはよう」という、朝一番の挨拶=コミュニケーションの開始の合図を続ける。
コミュニケーションの内実が保証されないから絶望するのではない。保証されないからコミュニケーションをあきらめない。
そこでは、「君とおはよう」と言い続けられる「関係性」が、その継続と保証が、ズレた世界をズレた世界のまま受け入れて、楽しく生きていく。
その「希望」になっているように感じられたのでありました。



と、詞についてもっぱら語ってきましたが、曲も私的にはかなり好みで(うまく語る言葉は持ちませんが)ひとつの楽曲としてとてもすばらしいものであると思います。