ぼくは、おんなのこ

ほぼ三ヶ月ぶりに復帰。特に何かあったわけではないですが、また何となく感想を置いていきたいと思います。



ぼくは、おんなのこ (Beam comix)

ぼくは、おんなのこ (Beam comix)

私は志村貴子の作品が大好きである。しかしその作品について語ることは、実に困難である。
その理由は単純だ。彼女の作品の多くの主要テーマが(すべての作品ではもちろん無いのだが)思春期の、「女の子」にあこがれる少年であり、自分の男性性を受け入れがたい少年であるからだ。*1
そしてその少年について語ることは実に楽しい。いうまでもなく自分自身の欲望を語ることであるからです。「傷つける性である男は醜悪である。乙女になりたい。性を否定したい。そしてそんな欲求を持つ自分は女の子を傷つけない」という欲望を。

いうまでもなくこれは欺瞞に満ちています。いくら言葉で性を否定したところで、自分の性を性欲を倦んだところで、自らの身体から逃れられない(本気で逃れる覚悟もない)我々の言葉は単なる逃げにすぎない。それよりも、自分の性を受け入れそこから女性との関係性を構築しなおす覚悟を持つ方が建設的でしょう。(なにより自分自身に対して言えることですが)


と自分語りになりましたが、そんな感じで志村作品を語るのは難しいといいつつ、紹介した作品について語ると。1997年の読み切りから2004年の書き下ろしまで。志村貴子という作家の魅力をじっくりと味わえる短編集ではないでしょうか。

上記の欲望を強く意識させるような表題作から(今とは異なるスクリーントーンを多用した絵柄も興味深い)女性の家庭教師に思いを寄せる少女を描いた書き下ろしまで、そこに共通するのは我々読者を「傍観者」の立場に、登場人物の心情に同化させないある種絶対的な壁のような感覚でしょう。
それは、単行本の最終ページ2004年に書き下ろされた読み切りのラストページ。家庭教師に思いを寄せる少女がマラソン大会のスタートラインに立つ姿を背後からとらえたカット。少女の背中が遠くに見えるカットと共に

完走できたら言ってみようかな

という少女の心が映し出されるシーンに集約され。またそこに我々は志村貴子のマンガの尽きぬ魅力を見るのだと思います。

*1:もちろんその代表は『放浪息子』だが他の作品にもそれが変奏されていると思う。