空気の底 はるかなる星
空気の底―The best 16 stories by Osamu Tezuka (秋田文庫)
- 作者: 手塚治虫
- 出版社/メーカー: 秋田書店
- 発売日: 1995/07/01
- メディア: 文庫
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手塚治虫名作集 (5) はるかなる星 (集英社文庫(コミック版))
- 作者: 手塚治虫
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1995/05/19
- メディア: 文庫
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手塚治虫が1970年頃に少年誌や青年誌に発表した短編を収録した作品集二冊。収録されている短編は、ジャンルもSF、時代物、ホラー、西部劇等々さまざながら、どれも高水準の物語を構成しており、手塚治虫の短編作家としての力用を感じさせてくれます。その特徴としては卓越した物語構成力でしょうか、上記のようにこの二冊の中にはさまざまなジャンルの作品(SFが一番多いですが)収められており、当然ストーリーの展開もさまざまです。ただ、どれにおいても一つ一つの台詞や絵があるべき場所に収まっており、どの物語も最初から最後まで圧倒的に見晴らしがよく明確で明快です。それは一つの美点であると同時にそのある種の隙のなさ、一つの主題やテーマを語ることの上手さは、私的な感覚であるとは思いますがどこか読み終えたあとの物足りなさを感じさせたのも事実です。
他に興味深い点としては、絵のおもしろさでしょうか。初期の丸を基本とした絵の特徴を残しつつも、リアルな人物造形や青年誌な絵柄も取り込んだこの作品集での手塚治虫の絵からは、マンガの絵の持つ迫力が、いまの主流の漫画作品とはまた異なった印象で伝わってきます。特筆すべきは『はるかなる星』に収録された「グロテスクへの招待」。好きになった物と「同化」してしまう少女ネリの姿。さまざまな物と同化したその姿の持つまさに「グロテスク」としか言いようのない迫力からは手塚治虫の丸みを帯びた絵が生み出す不気味な力があふれています。
輝く断片
- 作者: シオドア・スタージョン,大森望
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2005/06/11
- メディア: 単行本
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あなたはわたしが必要ですか?
スタージョン・ミステリ傑作選と題され、その名の通り密度の濃いミステリ5篇とコメディ調の3篇からなる短編集。とぼけた味わいのあるコメディ作品も棄てがたい魅力を放っていますが、やはりミステリ作品の魅力というか力強さは圧倒的。ミステリといっても特に密室殺人が出てくるわけでもないし、不可能犯罪に挑む名探偵も出てきません。そこにあるのは、日常の皮をかぶった非日常もしくは非日常を胚胎した日常と言えるような意外性のある設定。その不可思議な日常と非日常の境界の上で高密度な文章が、犯罪にいたる人間の心理、その哀切を映し出し描き出されます。
そういった意味では「犯罪心理小説」「サイコサスペンス」という言い方が解説でもされていますがそちらの方が適切かもしれません。特に最後に収められている三篇「マエストロを殺せ」「ルウェリンの犯罪」「輝く断片」はページをめくるごとに張り詰めるような緊迫感。そして引き絞られるような哀切に打ちのめされます。
例えば表題作である「輝く断片」。雨の夜。一人の男が瀕死の女をひろった。それまで醜い顔、53歳になるまで一人の友達もなく、当然のように童貞で、ただ孤独に与えられた仕事をこなすだけだった人生、誰にも必要とされない人生に現れた”輝く断片”。そして男は医者に行くこともなく、誰にも頼ることなく見よう見まねで手術を行い、その後の世話も全て一人でやっていく。「おれ全部やる」とつぶやきながら。当然のことながらそれはただ彼の一方的なつぶやきにすぎない。ただ、彼は必要として欲しいと思っていただけ、ただ、それはどこまでも思っていただけだった……。
続きは是非お読みになってお確かめください。
そして、これらの諸短編から感じられるのは、そしてスタージョンの作品の多くに、ある時は主題として、ある時は通奏低音として流れる一つの感覚です。それはなかなかに名状しがたいのですが、"need"という感覚なのではないでしょうか。それは人が他者に対して抱く欲求ただそれは「奪う」「欲しい」という能動的で一方的な感のあるものではなく。あなたが必要である。あなたに必要として欲しいという相互的で双方向的な欲求なのではないでしょうか。私的にはそれこそがスタージョンの描くところの「愛」であるし、その高密度な文体によって描かれるものだし、その文体を要求する内的な動機なのだと思います。そしてそれが満たされないとき、不成立に終わるとき、幻として消えるとき、見つけられないときをスタージョンの多くの傑作は書き出したのかもしれないと今感じられます。
海を失った男
- 作者: シオドアスタージョン,若島正,Theodore Sturgeon
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/04/04
- メディア: 文庫
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いわずとしれたスタージョンの短編集。一見なんだかよくわからないけど、強烈な魅力を放つ表題作をはじめとして全八編ほとんど外れなしで楽しめる短編集を読む楽しさを感じさせてくれる一冊。
私的には「手」に恋した男の異形の愛情を描いた「ビアンカの手」がベスト。単にフェティシズムという言葉に落とすことが、罪悪に思えるほどに、どこか美しささえたたえた「手」への愛情が、重ねられた襞のような分厚く、それでいて柔らかさを感じさせる文章に乗せて語られる。我々読者はその文章の襞の中に飲み込まれるように、溺れるようにしながら最後のカタルシス=破滅へと一気に疾走していくのだ。
さて、スタージョンのメインテーマとされており、本短編集でも多くの作品で主題となっている「愛」や「コミュニケーション」である。そのある種陳腐とも言えるテーマが、圧倒的に魅力的に感じられるのは、もちろん各短編のアイデアや場面設定の上手さもあるにしろ。この読者の精神を言語の襞に取り込み、その中で迷わせるような描写/文体が、人と人の関係性である「愛」を描き出しているからと言えるのかもしれない。「愛」という言葉に不可避に潜んでいる複雑さ、それは結局のところ愛というものが一者の中のみでは完結し得ず、他者との交換の間にしか存在し得ないということ。その関係性の微妙さ、複雑さ、不可思議さの表現。それは単純な簡潔な言葉ではなく、時間、感情、思考、それらが多層の襞のように重なるところに生起するのかもしれない。
と、なんだかよくわからなくなってきた。やはりこの諸作品の魅力を語るときには
「先生、この短編、さっぱり何が書いてあるのかわかりませんけど、でも凄い!」(p.465)
この名無しの京大生の一言に勝るものはないのかもしれないと、自身の言葉の無意味な折り重なりを感じては、思うのでした。
エクリチュール元年
- 作者: 三浦俊彦
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2007/11/01
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そうです。ESPを使えばよいのです。
『戦争と平和』に一度でも登場した人物のうちもっとも背の高い人物の母方の祖母の名前は何か?『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンの血液型。『雪国』の島村の自慰頻度。
それらの答えようがない、文学作品の疑問に対し、上記のひとことで答える。「ESP文学読解」や
「侠気を装い故意に見破られることによって実は侠気にあらずとアピールするその実真実の侠気がありうるだろうか」という問いを「へ健康的な韓国人営業部長がポルトガル語で最も長い単語をトマトを頬張りながら発音したときの典型表情を八咫鏡に映してみること」やら「仏陀の足の裏の色素変化に着目しつつ要約する」を通じて「学際的・汎文化的応用が窃視できる臥薪嘗胆へと贖罪する」
謎の「常緑樹神学」等々が
これまた謎の「総合文化哲学科」における修士論文中間発表会で、珍妙な教授陣の前で炸裂する。第一部。
そして「ESP文学読解」を活用して、あらゆる文学作品の評価が決定され、あらゆる批評理論が消滅する第二部。
第一部にしろ第二部にしろ、トンデモ大学小説や、トンデモ理論小説として一定の楽しさは感じられます。とんでもない言葉の連なりや理論の暴走や教授達の珍奇な言動など。ただ、その一つ一つをみると清水義範のパスティーシュや筒井康隆の大学教授ものの方が私的には面白いと思います。
ただ、この小説のおもしろさはその表層のトンデモ展開だけではなく、「虚構」というものについての思考にあるのではないかと感じられます。まず、基本的にこの小説の地の文は明確に世界を記述し確定させる物ではありません。
ここで尋ねるのは髭を擦りながら鷲尾、いや目をギラギラ見開きながら虎石の方がよい。(pp.82-83)
そう叫ぶまでの一連の動作をしなかったのだろうか。鷲尾がそこまでやっていれば、
「ぷ、はは、は、は、ははは」きっと突然の哄笑が必要となり、それを担うとしたらそれは兎丸修二助教授のみ。(p.96)
と、一部を適当に抜き出してきましたが、上記のようにこの地の文では小説内の事象のほとんど「可能性」「仮定」の領域で記述されていきます。つまり確かなもの、確かな現実を小説内で確定させることが非常に困難な世界において、そこでのメインテーマが、結局「ESP」によって小説内の究極的真実を確定させるというトンデモ理論とその勝利というなんとも徹底的に皮肉で、なおかつ「虚構」の中で確定される「現実」「真実」とはなにかという、ある意味小説の本質にも迫るかもしれない問いがそこにはあるように読み取れるのです。
また、本書には他の収録作として叙述ミステリ的でこれまた真実のありどころを描いた(と思う)「実習生」。言葉の言い換えのおもしろさと恐さと壊れて流れる言語と虚構が楽しい「朧々一九九五」があり、どちらも楽しく読めました。
言葉の連鎖と虚構にすりつぶされるような感覚を味わいたいならおすすめです。
病の哲学
- 作者: 小泉義之
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/04
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「生きるか死ぬか、それが問題だ」。しかし、本当だろうか。(p.07)
冒頭のこの問いから発し、小泉義之はギリシア哲学から現代思想まで哲学の系譜をたどる。そこで彼はまず、生と死を二者択一の物として強調し、悲惨な生ににしがみつくより、気高い死を選ぶことを言い立てる。死に淫する「死の哲学」を批判的に読み解いていく。その対象となるのは、ソクラテス、ハイデガー、レヴィナスである。この「死の哲学」への批判は単なる哲学の系譜学の問題ではなく、尊厳死・安楽死・脳死といったきわめてアクチュアルな問題と関連する形で読み出されていく。
そして、本書の後半において小泉は、その生と死の二者択一を越える。死に淫することなく、肉体的な生存を徹底的に肯定する哲学の系譜が論じられる。そこでは、プラトン、デリダ、パスカル、マルセル、ジャン=リュック・ナンシー、フーコー、パーソンズが取り上げられる。
本書の大部分を占めるのは、上記の哲学者の著作の分析である。その一つ一つの解釈の妥当性や正当性に関して何らかの意見を発する能力は私にはない。*1しかし、その読解の方法には強く興味を引かれる。彼は、本書の分析において上記の哲学者達の著作から数多くの引用を行う。しかしその筆致は思想を紹介し解説するというスタンスからはほど遠い。どの哲学者の言葉に付された文章も、著者=小泉の徹底した読み込みの中で、すなわち小泉の思想の枠内で、徹底した解釈を施されているようである。そしてその文章を触媒として、著者の思想が哲学が、生起していく。私的にはこれが哲学の言葉なのだろうと思えるのだ。
そして、その系譜学的解釈と、尊厳死等の現代的な問題の融合の先に小泉は。生の中の死と言える「病」を、通常否定的に語られ、場合によっては「死」のほうがよりよい物として提示されるそれを、生のあり方として肯定する。「病人の生」を人間の生のあり方として提示するのである。
そのような著者の思考や記述は「いまここ」で哲学があるべき領域を探索する一つの切実な試みであるように私には感じられた。
*1:違和感を感じる部分もあるのだが、それを述べ始めるときりがないし、また本当に違和感としか言えない段階なので、ここでは書かない
新編 江戸の悪霊祓い師
- 作者: 高田衛
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1994/11
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今から300年前、鬼怒川ぞいの小村で14歳の若妻の憑き物をおとし、江戸町民に絶大な人気を博した、エクソシスト祐天上人とは何者か。彼の呪術を最も支持した、江戸城大奥の女たちの心底に澱む不安とは―。ついには浄土宗教団のトップにまで登りつめた、ひとりの悪霊祓い師の虚像と実像をあばき、もうひとつの江戸をとらえる。(裏表紙内容紹介より)
このように書かれるとなにか、道鏡やラスプーチンのような霊力を売り物にして女性の権力者に近づき、その怪しげな力で栄華を欲しいままにするという伝奇小説的な妖怪坊主のようなイメージがわくのではないでしょうか。私も最初そう感じて本書を手に取りました。
しかし、この祐天からはそのような生臭みは感じられません。八犬伝などの日本の近代文学を専門とする著者が、江戸時代に刊行された『死霊解脱物語聞書』などの祐天の活躍をあつかった読み物から描き出すのは、弱い立場に置かれていた女性や子供の魂を救う、一人の霊能者であり高僧祐天の生涯であり、そして怨霊や呪術の背後に存在する、江戸時代の「闇」をめぐる諸要素。閉鎖的な村共同体の倫理。女性や子供が置かれた苛烈な状況。女性と堕胎。当時の江戸における浄土宗教団の立場やその中での呪術をめぐる位置づけを読みやすい文章と史料的な裏付けに支えられたアカデミックな視点から書き出していきます。
特に興味深いのは、祐天のあつかった事件の多くが、後妻や妾をめぐる因縁談であったこと。(醜い妻を殺し後妻を迎えた男のところに、その妻の怨霊があらわれ、男の娘の身体を通じて恨みを訴える話。何人もの妾を孕ませては堕胎を強制していた男のところに、その妾と水子の怨霊が祟る話など)
そしてそれらの怨霊に対して祐天は、まず彼女らが訴える話を聞き、そして退治するのではなくその問題を解決すること(男を反省させる、隠れた真実を暴くなど)を通じて彼女らを「成仏」させるのです。
このような祐天の態度に著者は、女性には「五障十悪」があるとして、女性の救済を怠り差別してきた仏教の本質的な欠落を見て、それを埋める物であったとしており。そこに中世から長く存在してきた民俗宗教的な在野の霊能者達との関連を見ています。そしてその女性に対する救済の視点があったからこそ、大奥を含む多くの女性に支持され、民衆の英雄となり得たのだと。
このように江戸時代の闇の部分を当時の代表的な霊能者の伝記を通じて描き出す、きわめて学問的にも読み物的にも面白い一冊でした。