エクリチュール元年

エクリチュール元年

エクリチュール元年

そうです。ESPを使えばよいのです。

戦争と平和』に一度でも登場した人物のうちもっとも背の高い人物の母方の祖母の名前は何か?『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンの血液型。『雪国』の島村の自慰頻度。
それらの答えようがない、文学作品の疑問に対し、上記のひとことで答える。「ESP文学読解」や

「侠気を装い故意に見破られることによって実は侠気にあらずとアピールするその実真実の侠気がありうるだろうか」という問いを「へ健康的な韓国人営業部長がポルトガル語で最も長い単語をトマトを頬張りながら発音したときの典型表情を八咫鏡に映してみること」やら「仏陀の足の裏の色素変化に着目しつつ要約する」を通じて「学際的・汎文化的応用が窃視できる臥薪嘗胆へと贖罪する」
謎の「常緑樹神学」等々が

これまた謎の「総合文化哲学科」における修士論文中間発表会で、珍妙な教授陣の前で炸裂する。第一部。
そして「ESP文学読解」を活用して、あらゆる文学作品の評価が決定され、あらゆる批評理論が消滅する第二部。

第一部にしろ第二部にしろ、トンデモ大学小説や、トンデモ理論小説として一定の楽しさは感じられます。とんでもない言葉の連なりや理論の暴走や教授達の珍奇な言動など。ただ、その一つ一つをみると清水義範パスティーシュ筒井康隆の大学教授ものの方が私的には面白いと思います。

ただ、この小説のおもしろさはその表層のトンデモ展開だけではなく、「虚構」というものについての思考にあるのではないかと感じられます。まず、基本的にこの小説の地の文は明確に世界を記述し確定させる物ではありません。

ここで尋ねるのは髭を擦りながら鷲尾、いや目をギラギラ見開きながら虎石の方がよい。(pp.82-83)


そう叫ぶまでの一連の動作をしなかったのだろうか。鷲尾がそこまでやっていれば、
「ぷ、はは、は、は、ははは」きっと突然の哄笑が必要となり、それを担うとしたらそれは兎丸修二助教授のみ。(p.96)

と、一部を適当に抜き出してきましたが、上記のようにこの地の文では小説内の事象のほとんど「可能性」「仮定」の領域で記述されていきます。つまり確かなもの、確かな現実を小説内で確定させることが非常に困難な世界において、そこでのメインテーマが、結局「ESP」によって小説内の究極的真実を確定させるというトンデモ理論とその勝利というなんとも徹底的に皮肉で、なおかつ「虚構」の中で確定される「現実」「真実」とはなにかという、ある意味小説の本質にも迫るかもしれない問いがそこにはあるように読み取れるのです。


また、本書には他の収録作として叙述ミステリ的でこれまた真実のありどころを描いた(と思う)「実習生」。言葉の言い換えのおもしろさと恐さと壊れて流れる言語と虚構が楽しい「朧々一九九五」があり、どちらも楽しく読めました。

言葉の連鎖と虚構にすりつぶされるような感覚を味わいたいならおすすめです。