病の哲学
- 作者: 小泉義之
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/04
- メディア: 新書
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「生きるか死ぬか、それが問題だ」。しかし、本当だろうか。(p.07)
冒頭のこの問いから発し、小泉義之はギリシア哲学から現代思想まで哲学の系譜をたどる。そこで彼はまず、生と死を二者択一の物として強調し、悲惨な生ににしがみつくより、気高い死を選ぶことを言い立てる。死に淫する「死の哲学」を批判的に読み解いていく。その対象となるのは、ソクラテス、ハイデガー、レヴィナスである。この「死の哲学」への批判は単なる哲学の系譜学の問題ではなく、尊厳死・安楽死・脳死といったきわめてアクチュアルな問題と関連する形で読み出されていく。
そして、本書の後半において小泉は、その生と死の二者択一を越える。死に淫することなく、肉体的な生存を徹底的に肯定する哲学の系譜が論じられる。そこでは、プラトン、デリダ、パスカル、マルセル、ジャン=リュック・ナンシー、フーコー、パーソンズが取り上げられる。
本書の大部分を占めるのは、上記の哲学者の著作の分析である。その一つ一つの解釈の妥当性や正当性に関して何らかの意見を発する能力は私にはない。*1しかし、その読解の方法には強く興味を引かれる。彼は、本書の分析において上記の哲学者達の著作から数多くの引用を行う。しかしその筆致は思想を紹介し解説するというスタンスからはほど遠い。どの哲学者の言葉に付された文章も、著者=小泉の徹底した読み込みの中で、すなわち小泉の思想の枠内で、徹底した解釈を施されているようである。そしてその文章を触媒として、著者の思想が哲学が、生起していく。私的にはこれが哲学の言葉なのだろうと思えるのだ。
そして、その系譜学的解釈と、尊厳死等の現代的な問題の融合の先に小泉は。生の中の死と言える「病」を、通常否定的に語られ、場合によっては「死」のほうがよりよい物として提示されるそれを、生のあり方として肯定する。「病人の生」を人間の生のあり方として提示するのである。
そのような著者の思考や記述は「いまここ」で哲学があるべき領域を探索する一つの切実な試みであるように私には感じられた。
*1:違和感を感じる部分もあるのだが、それを述べ始めるときりがないし、また本当に違和感としか言えない段階なので、ここでは書かない