スプライトシュピーゲル(3) オイレンシュピーゲル(3)


冲方丁の最新作であり、二つのレーベルから同一世界観の作品を送り出すというなかなか野心的な試みのシリーズ。
さまざまな感想を散見すると、結構「ぬるい」「ライト」という言葉が見られます。それは一面間違ってはいないと思います。
とくにキャラクター造形はかなりラノベ的定型(さらにいえば萌えキャラ的定型)です。ストーリーもそのキャラクターを中心に見ると、(他の冲方作品と比較すると特に)「ライト」ではあるといえるかもしれません。しかし私はこのシリーズは実に「ヘビー」だと思っています。

それは、非常に私的な印象ですが、この両作に共通する本質的な要素として「都市」があるように感じてられるからです。

まず、彼女らの都市ミネアポリス=ウィーンの設定は魅力的です。「国連都市」という名前で、国連組織を抱え込むことで、テロが横行する都市。高度な資本主義と民族宗教対立が融合するように並立する都市。文化保護として、登場人物に組み込まれる日本語=文化ハイブリティの戯画
まさに9・11以降の世界を凝縮して戯画化して、詰め込んだような都市と、そこで生起する官僚的政治的背景は、ファンタジーファンとして実に興味深く楽しめます。


しかし、本作において「都市」を語る際には、主人公の少女達と都市の関係を欠かすことはできません。

主人公の特効児童達は、それぞれが都市・ミネアポリスの治安維持部隊に所属し、活動しています。そして、彼女らの体の一部、手足でもある重武装は、それらの組織より供給されたもの。
作中でも言われているように、まさに都市の兵器として彼女らはあり、さらにいえば「都市そのもの」として彼女らはあるのです。

ある意味で、彼女たちこそ都市そのものなのだ。(中略)都市のルールに従って大人たちが使用する武器そのもの(スプライトシュピーゲル p12)

そしてこの現実は単に外からの彼女たちへの評価というわけではありません。彼女たち自身がそれを内面化し、自己のアイデンティティそのものとしているのです

さあ、この都市であれ、この都市と共にあれ。この都市をこの都市たらしめている不可視で巨大な原理の一部として。ここは自分が属する都市であるとともに、この自分こそ都市そのものだ。自分という存在はとっくの昔から、この都市そのものであるのだ。この都市が自分だった。自分はこの都市だった。
これが、自分のやるべきことだった。(スプライトシュピーゲル p184)


ここには、道具として兵器として、都市に(大人に)所有される彼女ら、そしてその「所有されること」を自らの存在意義にしてしまっている彼女らの姿が、そしてそれを強いているこの「都市」という存在の醜悪さが浮かび上がっています。
また、サイボーグと少女が結びつく際には不可避である。「所有される少女」という問題も同時に提起されていることは言うまでもありません。


この、彼女らの感情も含めた都市への隷属の根元にあるのが、主として『オイレンシュピーゲル(参)』において提起される。
「記憶」をめぐる問題です。そこでは消滅した初出撃、初めて仕事で人を殺したときの記憶をめぐって少女達は探求し、そしてその記憶が「極秘」であり、最大限の秘密であることを知ります。
つまり彼女らは、自分が闘い始めた、人を殺したきっかけを知ることなく闘っている。闘う理由さえも都市に奪われている。肉体だけでなく、精神まで都市に所有されています。
だからこそ彼女らは、自らを「都市」とするしかない、無限の隷属に落ちていくしかない

それにたいして彼女らも

何かが許せなかった。これは私のだ。私の記憶、私の体験、私の現実だ。他人が私から隠すなんてふざけてる。(オイレンシュピーゲル p113)

と怒りを示していますが、この時点では「記憶」はその概要こそわかってくるもの、彼女らの手に取り戻されることはありません。


しかしこの両作の三巻では、この隷属を突破する可能性もまた示されています。スプライトシュピーゲルのクライマックス、彼女らは「都市」から供給される武装なしに、自らの意志で、仲間への信頼と、共感だけを武器に
敵に立ち向かいます。

今の彼女たちにあるのは、ただ一つだけの思い。(中略)――喜びとしての絆。(中略)ただ互いの絆をもって、常軌を逸した勇敢さと、おのれの生命すら軽率に投げ出す無謀さで――何よりも何かを信じ続け、それを信じているのだということをただ証明するためだけに、そうしているように思われた。
(中略)そうすることで初めて、都市が用意し続ける原理を、越える可能性があるというように。(中略)それは、だれかが人間として立つ瞬間だった (スプライトシュピーゲル


中略だらけでわかりにくいですが、その感動の全貌は本編を読んでいただくとして、ここで示される「都市の原理」を越えるものとしての仲間同士の「喜びとしての絆」、都市に結びつけられ、記憶までも奪われ支配されている彼女たちが唯一「今ここ」で自由にできるものとしての「絆」が
彼女らの解放の可能性として設定されています。
また各人が抱いているチーム員以外への思い(恋愛?)もその鍵の一つになるのかもしれません
彼女らはおそらく機械の体を棄てることはできないでしょう。そのような形での解放はあり得ない、そこで示されるこの可能性は果たして福音と言えるのか。それはこれからのシリーズ次第としか今は言えません。
下手をすると、ただ単に個人が解放されたと思いこむだけで、都市の支配は単に隠蔽されているだけ

そして、オイレンで追求されていた消えた記憶の概要は、どうやら両シリーズの主人公達が初出撃の時「同じ場所にいたこと」であるとわかってきます。

ここからは、スプライトで示された隷属を断ち切る鍵となる「絆」が両シリーズの主人公達で共有される可能性が示されていると言えるでしょう。


都市と機械と少女が宿業的に抱え込む「所有」の問題に、おそらくきわめて自覚的に、そしてそれを主人公達の「絆」というを武器とすることで内部から食い破ろうとしているように私には見える本シリーズ。その試みはきわめて「ヘビー」だと私には思えるのです。